話題の庄司紗矢香とあり、会場はほぼ満員状態。京都コンサートホールで満員になるのは年に数回しかないだろうから珍しいことだ。。。
まずはドヴォルザークの謝肉祭で手慣らし。非常に明快で切れのある指揮。ただ、場所が悪かったのか、ホールが悪いのか、それともオケなのか・・・チェコフィルの弦の音はどうも明快には聞こえてこない。喩えて言うならスピーカーの前に板を1枚置いたような何かこもった音色。つや消しの音といった方が分かるでしょうか。演奏自体ははつらつとしていて気持ちよかった。
さて、注目の庄司さんの演奏。線は細いながらも非常に清潔で純真な澄み切った音色でとても心地よかった。モーツァルトにはぴったりだったのではないだろうか。もちろんテクニックも兼ね備えており、聴き応えは十分だった。特に圧巻は第1楽章のカデンツァ。あまりにもシャープな演奏だったのでチャイコフスキーっぽいところもあったが、聴衆の注意を一身に集め、会場は静まり返りかえって聴いていた。ただ、静まり返っていないところがあった。それは舞台袖であった。。。私はヴァイオリンの周波数のみに集中して聴いていたために気づかなかったが、カデンツァ中に金管の練習がホール内に漏れていたのだ。さすがに耐えかねた指揮者が第1楽章が終わると同時に袖に向かい忠告。第2楽章に入る寸前にも音が聞こえたために演奏は開始できず、会場は笑いに包まれた。その後はトラブルもなく、平和的なやさしさに包まれたまま曲は終わった。アンコールではパガニーニの24の奇想曲から第13番が演奏された。モーツァルトがぴったりだった・・・と書いたが、やはりパガニーニ国際コンクールの覇者である。パガニーニは素晴らしかった。短い曲の中に全ての要素を詰め込み、またもや聴衆の喝采を浴びた。今度は違う曲を聞いてみたくなった。
メインはマーラーの巨人。「チェコフィルで巨人?」と思ってしまうが、若手のクライツベルクの指揮だと何か面白い解釈があるかも・・・その期待は見事に打ち砕かれた。いい意味でも悪い意味でも。まず、テンポの急変など若手指揮者が陥りがちな解釈は一切なかった。終始ほぼ一定のテンポで最後まで演奏された。ある意味で面白くない演奏なのだが、純音楽として巨人をなかなか聞くことがない場合が多いので良い演奏であったと思う。ちょっとバランスが悪かったのは第2楽章。演奏としては一番良い楽章だったのだが、妙に元気はつらつ過ぎて前後との対比がアンバランスだった。第3楽章はお気に入りの楽章なのだが、残念ながらコントラバスのソロはイマイチだった。さらにフルートがフライングしたり・・・第4楽章も勢いとスピード感に任せることなく、感動的に音楽を作り上げていく。テンポがどんどん遅くなっていくという感覚が適当か。このような演奏はかつて、マイケル・ティルソン・トーマス指揮のロンドン響で聞いたことがある(あの時は平和的なまでに感動的だったが)。パンフを見て少し納得した。クライツベルクはMTTのアシスタントをしていたそうだから、何らかの影響があったのかもしれない。オケはうまいとは言い切れなかったが、丁寧で素直な演奏には好意をもてた。
アンコールはスメタナの歌劇「売られた花嫁」序曲。さすがにお国もののため自身たっぷりの演奏で楽しかった。
【余談】 ロビーやホールの出口にお詫びのポスターが張ってあった。もちろん2曲目の「舞台袖」事件についてだ。何もお詫びにしなくても良かったのに。それも計5枚も・・・
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